ドッキリ!実話
タイムレースの少年 (1/2)
― 暴走の果てに ―
芥川賞作家の村田喜代子さんの作品のひとつに、「熱愛」という小説がある。
これは、2人の少年がオートバイで目的地までツーリングをする話である。2人は、閉鎖されている海岸沿いの断崖の道をあえて突っ走る。いつしか2人の間に距離があき、先行する者の姿が見えなくなる。後走していた少年は目的地に着くが、先についているはずの友人が、いない。もしや事故にあったのではという不安から、無事に目的地に着いた少年が今のルートを逆行して捜索するのだが、影も形もないのだ。オートバイに乗ったときの一種陶酔の境地とは裏腹に、友人をさがすときのミステリアスな不安が、緊張感のある文学空間を作っていた。
オートバイの爆音をとどろかせながら猛スピードで突っ走る。これは、その趣味の少年にとって、こたえられない陶酔の世界にいざなうものらしい。
明け方の午前五時、東京湾岸の直線道路で、トラックが道路際の倉庫に入ろうと右折しかけていたとき、それと気づかず、対向から直進してきた400ccのオートバイがトラックに激突した。オートバイに乗っていた高校2年生の少年は、即死であった。
死んだ少年というのは、千葉県松戸市の公立高校に通っていた。あまり評判の良くない高校であった。少年は中学3年の頃から、一時暴走族仲間に加わっていたこともある。といっても、その頃はまだオートバイの免許をもっていなかったから、仲間の2輪に乗せてもらったり、囃したりしているだけだった。高校1年のとき、オートバイの免許をとってからは、たまっていたエネルギーを一気に吐きだすかのように、深夜、仲間たちといっしょにエンジンの爆音を響かせて、東京芝浦あたりにくりだした。こうした息子の行動を、親が気づかなかったわけがない。おそらく、たいして注意もしなかったのだろう。息子が放埒なら、親もいいかげんだったのである。半年後、少年は、警察に補導された。暴走族取締りの検問にひっかかったのだ。そのときを境に、少年は、表向き暴走族から足を洗い、気のあった仲間だけのツーリングに生活態度を変えたのである。
まわりにいた友人たちの話によると、実はその事故のときも、品川埠頭まで皆でツーリングにきて、タイムレースをしていたのだった。タイムレースをするときには、交通量のきわめて少ない直線道路か、ゆるやかなカーブになったところを選ぶのだという。たしかに現場は1キロ先まで見通しのきく直線道路であった。右側には東京湾の防波堤がつづき、左側には鈍色の倉庫が陸屋根をつらねている。
レース中は、背をまるめて卵型の体形をつくり、少しでも空気抵抗を少なくする。スキーの滑降競技と似たようなフォームである。前方に障害物がないとわかると、頭を沈め、前を見ないこともあるそうだ。
衝突現場には、オートバイのスリップ痕が残っていなかった。ということは、オートバイがブレーキをかけなかったことを意味している。おそらく少年は前を見ていなかったのだろう。となると、被害者の過失も最低30パーセント以上はあることになり、その分を損害賠償金からカットしなければならない。
加害会社は、全国に支店をもつ日本でも有数の運送会社だった。事故を聞いたあと、その会社の事故係である下田さんが、何回も遺族の家を弔問した。下田さんは54歳、事故の処理をするようになって、すでに20年近くになる。行くときは必ず菊の花をたずさえ、仏壇に線香をあげ、手を合せた。むろん、葬儀にも出席し、10万円の香典をのし袋に包んでもっていった。
死亡事故の場合、賠償問題の交渉は、通常四十九日を過ぎてから始められることが多い。というのは、それまでは、遺族にしてみても家族の突然の死にみまわれて、衝撃のあまり金銭問題を冷静に話し合うような心境になれないからである。しかしなかには、葬儀をすませると早々に、加害者からの賠償金の提案があってしかるべきだと考えている遺族もいる。加害者が気をきかせたつもりで、四十九日を過ぎるまであえて金銭問題をださず、時の経過をまっていたりすると、被害者の遺族からひどい剣幕でなじられることがある。
この事故の場合、そんなことにならないようにと、葬儀が終わって間もなく、下田さんがそれとなく示談交渉の開始時期を被害者の父親に打診すると、案の定、父親からは一喝されたのであった。
「四十九日も終わってないというのに、お宅らは遺族の気持ちを何と心得てるんだ! 非常識にもほどがある」
と。
そんなことがあって、先方の言われるままに四十九日が過ぎてから、下田さんはもう一人の事故係である36歳の渡辺さんをともなって、千葉県松戸市にある被害者の家を訪問した。例によって、白と黄色の菊の花束をたずさえて。
焼香をしたあと、仏間で父親と今後の交渉の進め方を話していた。そのうち、40歳前後の小太りの母親がでてきて、大粒の涙をポロポロ落とし、わけのわからぬことをつぶやきながら、正座している下田さんをいきなりうしろからはがいじめにした。父親がとめるのもきかず、母親は半狂乱になって下田さんの頬をぶった。そばにいた渡辺さんは唖然としたが、すぐ立ちあがって母親を引き離した。母親は今度は台所から果物ナイフをもちだしてきた。身の危険を感じた二人があわてて玄関に走ると、もってきた花がばらばらにちぎられて、2人の靴のなかにぎゅうぎゅうにつめこんであった。靴を手にさげ、靴下のまま2人は表にとびだした。
息子を失った悲しみはわかる。加害者を責めたくなるのも、もっともだと思う。しかし、それは言葉か、もしくは合法的な手段で責めるべきで、刃傷沙汰に及ぶべきではない。そのヒステリックな取り乱しようを聞いて、この母親はなんと息子への思い入れがはげしかったのかと、思わずにはいられなかった。長年、交通事故訴訟を扱っているが、死亡事故でもこんなケースははじめてであった。
下田さんとしても、これでは到底自分たちの手には負えないと思ったのだろう。
「先生に一任して、ほっとしましたよ。あのお母さんのものすごい形相が夢にまででてきて、わたしゃ、うなされましたんで」
ぼくの事務所で、交渉の経過についてひととおり説明をおえたとき、下田さんは言った。
霞ケ関にある弁護士会館で第1回の交渉に臨んだその日、先方は、新たに依頼した弁護士2人とともに、両親が来ていた。弁護士の1人はすでに還暦をすぎた恰幅のよい男で、法律事務所の所長だった。チャコールグレイの背広の襟につけられた弁護士バッジは、何十年にもわたる実務経験を物語るかのように、表面の金メッキがすっかりはげ、手垢によごれて錆色にくすんでいた。もう1人の方は、おそらくボスに雇われたいそ弁(勤務弁護士の通称)で、背丈だけがカイワレのようにひょろ長く、20代後半のいかにも若造といった風貌だった。
最大の争点は過失相殺である。過失相殺とは、被害者の過失割合分を総損害額から減額することである。ぼくが、減額の根拠として被害者にも落度があることを言いかけると、先方の母親がすかさず口をはさみ、ぼくにそれから先を言わせなかった。
「日頃、アキオにはオートバイに乗っても、決して危ないことはするな、と言っていたんだから、アキオがタイムレースをしていたなんて、とんでもない!」
頬を紅潮させた母親は、唇をふるわせながら、吐き捨てるように言った。
この母親の主張を聞いて、あなたのそのような盲目的な愛が、息子さんをして盲目的な行動に走らせたのです、とぼくは言ってやりたかった。
交渉は、始まると同時に決裂の兆しを帯びた。ボスである年輩の弁護士としても、感情的になりやすい母親の性格からして、話合いでは解決できないことぐらい、最初から予想していたにちがいない。
「では、いずれ東京地裁の法廷でお会いしましょう」
別れ際、年輩の弁護士は、ぼくに向かってきわめて事務的にそう言うと、いそ弁と両親をひきつれて弁護士会館をでていった。